代表 佐藤 孝行の略歴

東京造形大学デザイン学科卒。築地の広告代理店にて販促ツールの企画・デザイン業務を13年、そのあと米国の日系スーパーマーケットチェーンに転職。カリフォルニア州トーランスの本社マーケティング部にてイベント企画・運営、TVCM制作・チラシなどのディレクションを担当。帰国後、Web制作・グラフィックデザインにて独立。
2003年に開業し、2007年に株式会社ロゴ・アンド・ウェブとして法人化しました。

生い立ち(もしご興味がありましたらクリックしてご覧ください)

生まれは千葉県松戸市です。
3歳の頃、ある日の夕方、兄と二人で母を探して街をうろうろ。京成線の踏切の向こうに母を見つけ、そのときあろうことか遮断棒をくぐって走行中の電車に衝突してしまいました。といってもかすった程度なのですが、頭から大量に出血して電車を止めてしまい、なおかつその電車に乗せてもらって母と二人で病院に行ったそうです。ハゲができただけで済みましたので、深くはなかったようです。脳にも損傷はなかった…ということです。

おとなしく絵を描いたり、粘土遊びをすることが好きな子どもでした。

小学校に上がるタイミングで同じ市内で引っ越しをして、証明写真・記念写真撮影、DPEを受けつける写真店の子どもになりました。

フジカラーやさくらカラーの販促ツール(のぼり旗、等身大カットアウト、ハンガー、展示台などのPOP)がアサミカラーというラボから頻繁に届き、明確な目的(販促、賑やかし)を持ったツール自体にも興味を持ちました。母が欽ちゃんやジャンボマックスのイラスト入りののぼりから、布団カバーを作ってくれたりしました。

通った小学校は、子どもにはマラソンさせておけば風邪もひかず健康になるとかたく信じていた学校で、毎週、学年合同のマラソンがありました。1、2年生の頃はマラソンが得意で学年1位を取ることも度々あった(12クラスあり同じ学年に500人以上の子どもがいました)のですが、学年が上がるごとに順位が下がりました。それでも挫けず5年、6年生では、陸上部に所属して1000mや1500mをがんばって走っていました。

習い事では、小学校時代を通して剣道をやりました。人間禅道場という座禅修行を重んじる道場で、真冬には寒稽古を行っていました。真冬の早朝5時から屋外で、剣道着での稽古は本当にきつく、とてもつらかったです。先輩達は霜柱が立っている地面に素足ですり足をしていて、畏怖の念を憶えました。競技のような剣道ではなく、ひたすら素振り、形(かた)、掛かり稽古でした。掛かり稽古で先輩の突きをカウンターで食らって後に吹っ飛び、後頭部を強打(防具を着けていても後頭部は布きれしかないのです)したこともありました。目から星が飛び、呼吸も一瞬困難になりましたが、何事もなかったように練習は続けられました。

小2のときに、ぺんてるの絵画コンクールで入賞してちょっとだけ絵の才能があるような気になりました。

これは自慢ですが、なぜか小学校時代は女子に人気がありまして、4〜5年生のころだったかバレンタインデーにクラスの女子ほぼ全員にチョコレートをもらっていました。完全に早すぎるモテ期でした。

『仮面ライダー』や『帰ってきたウルトラマン』が始まったのが5、6歳です。『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』は再放送で観て、大好きでした。当時の男の子はほとんどみんな観ていたように思います。

マンガも大好きで通っていたそろばん塾と、兄が買っていたジャンプ、サンデー、マガジン、チャンピオンを読み倒しました。サーキットの狼、ドカベン、すすめ!!パイレーツ、新巨人の星、硬派銀次郎、ワイルド7,男組、ダメおやじ、デビルマン、魔王ダンテ、魔獣戦線、キャプテン、プレイボール、戦場まんがシリーズ、750ライダー、番長惑星等など、お年玉をつぎ込んで購入しました。

学校の休み時間に、オリジナルの野球マンガを描いて男子にウケたりしてました。楳図かずおに影響され、ホラー系の絵も描いていましたが、それは嫌がられました。

兄の影響で6年生の頃からピンク・フロイドやキング・クリムゾンなど洋楽を聴くようになりました。小学生でこんな外国の音楽聴いちゃうオレ、カッコい〜と自惚れていました。

中学校にあがるとバスケットボール部に入りました。身長は人並み、俊敏さにも欠けていて、シュート力もボチボチでしたので、向いていませんでした。しかしマンガ『キャプテン』の谷口のように頑張れば何とかなるのではという思い込みで懸命に努力しました。顧問の教師がやる気満々で、中二の頃は、朝練、昼練、夜練と一日中練習があり、周囲から呆れらるような部でした。残念ながらオスグッド・シュラッター病(成長期に多い膝に痛みが出る病気)を発症してしまい、固定ベンチ要員となり深く挫折感を味わいました。人には向き不向きがあるということがよくわかりました。

SEIKO 1979年の伝説的CM

私が中学1年生の頃、服部時計店のテレビCMで「HERO(ヒーローになる時、それは今)」という曲が使われていました。一目ですっかり気に入ってしまい甲斐バンドのファンになり、レコードを買い集めました。マンガに加えて、小説(芥川や太宰、星新一、大藪春彦など)もよく読んでいました。インベーダーゲームが流行り、家の写真屋の隣の玩具店で名古屋撃ちをやりまくりました。

見終わった後に会話にならなかった映画

中学3年生で初めて女の子と映画を見に行きましたが(松戸輝竜会館)、自分の好みで「野獣死すべし」を選んでしまい、そのせいもあってかフラれました。中学3年の6月に部活が終わってからは、勉強をさぼった分を取り戻そうと図書館に行って一人でコツコツと受験勉強をしました。教科書と参考書をバインダーのノートにまとめるという勉強法でした。

志望通りの公立高校に入れましたが、部活はこりごりと思い帰宅部にしました。音楽を聴きまくる日々でした。ロッキング・オン誌を何度も読み返し、NHK-FMの「軽音楽をあなたに」や「サウンドストリート」を愛聴しました。アコースティック・ギターを手に入れて、甲斐バンドや吉田拓郎、ビートルズなんかを一人弾き語っていましいた。デヴィッド・ボウイ、ルー・リード、ザ・クラッシュ、ザ・ストラングラーズ、エルビス・コステロ&ジ・アトラクションズ、ザ・スミス、トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズ、ジャクソン・ブラウン、プリンスあたりを好んでいました。節約のため地元のレンタル・レコードを借りてカセット・テープに録音したり、御茶ノ水のディスク・ユニオンで輸入盤や中古盤を買ったりしていました。

高2になって普通の大学ではなく美大に行くと決めて、美術室に出入りしてデッサンや平面構成を繰り返しました。夏季講習は御茶の水美術専門学校(OCHABI)に行きました。デッサンは少しは自信がありましたが、廊下に掲示されている作品はとんでもないクオリティで驚きました。夏休みが終わると、高校の美術室でデッサンと平面構成をくり返し練習しました。

高校生の時に描いたソラリゼーション

両親から浪人は絶対にダメと釘を刺されていたので、東京造形大学に入学しました。自分の高校では4年制の美大に現役で入ったのは自分が初めてだということで、少しだけ誇らしく思いました。大学は中央線の高尾駅からさらにバスで15分という僻地で、千葉からでは往復で5時間もかかりました。半年ほど通学を試みましたが、耐えきれず一人暮らしを決意しました。育英会の奨学金を借りながら西八王子に住みました。デザイン学科でグラフィック・デザインや写真撮影、ビデオ撮影〜編集などを学びました。奨学金がチャラになる可能性があったので、美術と工芸の教職課程も修了しておきました。

家賃に食費、画材や書籍代、そして洋服や遊びのためにもお金が必要があり、常にアルバイトをしていました。レストラン厨房、学習教材訪問販売、交通量調査、喫茶店・居酒屋ホール、機械組み立てサポート、富士スピードウェイでレーシングタイヤ整備、受託臨床検査の検体仕分け(夜間)、物流の荷物仕分け、イラスト描きなどたくさんの仕事を経験しました。お金をもらって働くというのはどういうことなのか学ぶことができました。人と接することに苦手意識があったので、それを少しでも改善できたらという想いがあり、極力人と接するタイプのアルバイトを選ぶようにしていました。大学時代は、すこし鬱々としていたかもしれません。

就職活動は、バブルの好景気が幸いしてかうまくいき、東京・築地の販売促進専門の広告代理店にデザイナーとして入社しました。写真店に生まれ、販促ツールに思い入れがありましたし、デザインしたり絵を描くことで毎月給料がもらえることがとにかく嬉しかったです。また一部上場の大手消費財メーカーとの直接取引しかしない会社だったのでそれがほのかに誇らしく、やりがいもありました。

いまだによく覚えているのは、新人のころに上司に叱られたことです。企画会議に参加した際にメモばかりとって発言せずにいたら、「発言しない奴は会議の場にいる意味がない」と言われました。それはもっともだと思い、それ以降は会議の場では必ず自分なりの意見を言うように改めました。

あえてのスーツでした

入社した当初、印刷物は版下台紙に写植を糊(ワンコート)で貼り付け、写真のあたりはトレスコープで取り、トレーシングペーパーに色指定して入稿していました。よく写植をお願いしていた会社が電算写植に切り替わったころ、Apple Macintoshを使ったDTPが普及するようになりました。

Macintosh Ⅱfx(Photo by Hellis

Adobe Illustratorのバージョンは3.2、Photoshop 2.0でした。Macintosh Ⅱ fxやⅡ ciを交代で使って、四苦八苦しながら操作を覚えました。

慣れてくるとStrata Studio ProやShadeといった3DCGソフトウェアを駆使して、販促ツールの店頭展開イメージを制作しました。

大企業相手に販促ツールのデザインだけでなく、販促施策の企画、ディレクション、コピーライティングまで担当させていただき、貴重な経験となりました。

大きな会社はCI(コーポレート・アイデンティティ)やBI(ブランド・アイデンティティ)がしっかりしていて、支給された分厚いバインダーに収められたCI/BIマニュアルを嘆息しながら見入っていました。

正確にコーポレートカラーが表現できているかチェックするために、印刷会社に足を運んで印刷に立ち会うことも多くありました。また撮影スタジオで、人物撮影や物撮りにディレクターとして参加することもありました。

宝石から化粧品、医薬品、ビール、海苔、家電メーカーなど幅広い業種のクライアントワークに関わらせていただき、販促ツール&グラフィックデザイナー、ディレクターとして13年間勤務しました。

1992 NIKE Force Tourでのチャールズ・バークレー

25歳ごろ、たまたまNHK-BSで放送されたNBA(全米プロバスケットボール協会)1990年-1991年シーズンのプレイオフ、シカゴ・ブルズVSロサンゼルス・レイカーズ戦を観ました。当時すでにバスケの神とうたわれていたマイケル・ジョーダンの美技に衝撃を受け、それ以降NBAのテレビ観戦に夢中になりました。

懐かしいNetscape Navigatorのバナー入り

1993年にMacintosh Centris 650を自腹で購入し、NIFTY-Serveのフォーラムを巡回たりして最先端にいるような気持ちでインターネットを楽しみました。翌年にはプロバイダの無料ホームページを利用し、イラストのスキルを活かしてNBAのファンサイトを公開しました。HTMLの本を購入し試行錯誤しながら「UNOFFICIAL NBA PAGE」というサイトを自力で作成したのです(後に「NBAおやじ」としてリニューアル)。インターネット黎明期のかなり早いタイミングだったので、ある程度形になっているだけでホームページを紹介するムック本(サイトの数が少なかった時代はそんなものがあった)に掲載されたり、無料でYahoo!ディレクトリに掲載してもらえたりして得意満面でした。NBAファン同士の交流もオンライン、オフラインの両方でできて、友だちがたくさんできました。この成功体験が自信となり、Webサイト制作を仕事にしたいと考えるようになりました。

34歳のときに、年間計画をもとに消費者に直接アプローチする流通の販促に携わりたいと考え、米国カリフォルニア州トーランスにある日系スーパーマーケット本部のマーケティング部に転職しました。英語が得意というわけでもないのに、0歳の娘と妻と米国に移住するという今思えばかなり無謀な行動でした。ひとつの会社しか知らずに一生を終えたくないという気持ちと「35歳転職限界説」、そして人生を一度リセットしてみたいというある種破壊的な衝動がない交ぜでした。ハリウッド、サンタモニカ、サンフランシスコ、サンディエゴ、ラスベガスがあるアメリカ西海岸に移住してみたいという憧れもありました。そこでは販促計画立案、イベント企画・運営、TVCMディレクション、チラシ・DMのディレクション、メディアリレーションなど様々な仕事をさせていただきました。トーランス、コスタメサ、サンディエゴ、サンノゼ、シカゴ、ニュージャージーなどにチェーン展開していましたが、現地日本人、日系人にほぼ限定された顧客層のため、広告やイベントの反応がダイレクトに伝わってきました。慣れない環境のなか、やり甲斐もあれば責任もある仕事。現地のデザイン会社やTV局の方々には助けられましたが、自分の力不足や永住権(グリーンカード)サポートの問題もあり、約2年後に日本に戻ることを決意しました。

帰国した2003年から、葛飾区で個人事業主としてHappy Designsという屋号でホームページ制作、チラシ・名刺デザイン、冊子やフライヤーなど販促ツールデザイン、イラスト・似顔絵制作を始めました。2年後には杉並区に引っ越し、渋谷区の代々木上原に事務所を構えました。2007年に法人化しました。

2015年、墨田区に移り住み、事務所は押上にしました。2023年、事務所を鐘ヶ淵に移転しました。

グラフィック・デザインとウェブデザイン、そしてデザイン制作側と発注側の両方の経験を活かして、幅広くお客さまのビジネスのサポートや問題解決に貢献していけたらと思っています。

お忙しいところ、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。